_ あのフリル姿を見たときのアンナのくせにこんなカッコしやがって〜(肘でつつく)感は実は心地良かったりもします(笑)。
こちらのほうがはるかに古いのだが、世間一般で親しまれているのは後から作られた石坂バージョン。
普通はそれにならって「ごくもんとう」と発音するため、終始「ごくもんじま」と発音されている旧作には違和感がありまくり。
スーツで決め、七三分けのポマードヘアにソフト帽の金田一千恵蔵は変。ルックス的には明智小五郎の土曜ワイド劇場スタイルに近い。
千恵蔵が金田一の他に事件の根源的存在である鬼頭家のじじいを演じているのも変。
ライダーとショッカー首領を同じ人が演じ、しかも双子だとかクローンだとかいう設定でもなんでもないような感じ。
「スター」のインパクトがさほど鮮烈ではなく、脇役なりのおいしさも評価される今の時代だと考えづらいが、当時は「まず千恵蔵ありき」で、
彼をいかに立てるかという基準で作られていたのだろう。昔の人のプロポーションがだいたい純日本人的である点を抜きにしても、
当時の銀幕のスターは全般的に顔がデカいが、それだけに中心に据えると安定感があるのは確かだ。
内容はどうかといえば、横溝映画特有のケレン味のない、普通の探偵物という感じで、昭和20年代の雰囲気を楽しむのが
ベストな見方だと思う。
金田一以外のキャラのダメ度・うっかり度が低く、みんなそれなりにやっているのは意外。たかがマムシに発砲する金田一萌え。
表現としてのおどろおどろしさはないものの、「白痴」や「汚れた血」という表現が地味に飛び交い、それゆえかえって怖いとも言える。
そういった存在に対する意識は、昭和40年代くらいまでは普通にこんな感じだったとは思うが。
石坂バージョン「獄門島」を確立された様式美メタルとするなら、こちらは時代に埋もれた普通の産業ロックか。
若い金田一健さんはノータイのジャケット、行動する都会派でなかなかふてぶてしく、オープンカーまで乗り回す始末だ(笑)。
石坂版だと歌手として成功し故郷に凱旋する女の子が主役だが、こちらでは歌手は冒頭に殺されてしまい、そこから事件が始まる。
石坂版は金モール詐欺師の焼死体や撲殺シーンの飛び散る鮮血、滝壷やワイン樽の猟奇死体など怪奇的演出が目立つが、
こちらは高倉健のアクティブな面が強調され、陰惨な印象はないので、そういうのが苦手な人でも大丈夫だろう。
その代わり石坂版にある「哀感」も相殺されているが。
石坂版では事件のカギとなる鬼首村手毬唄も、こちらでは殺された歌手が故郷伝承の曲として持ち歌にしている。歌詞も曲も違う。
「ごくもんじま」のラストではドロドロした因習を強く否定するようなセリフがある。
「悪魔の手毬唄」健さん版も、探偵物としてのサバサバした要素が陰惨ぶりを上回る。戦争が終わってからの日が浅い作品のほうが、
それまでの反動か、進歩的・理想主義的なイメージだったりするのが面白いなと。
ちなみに「蝶々失踪事件(蝶々殺人事件)」は物足りなかったなあ。
売れっ子錦絵モデルのファンである巳代松は、上方から来たドキュソDVな元亭主に追われていたその女をかくまう。
ドキュソは元妻とよりを戻すべく、悪徳瓦版屋やエロ絵師と組んで卑劣な手段を講じる。ちょうど寅の会の競りにかかっていた
亭主一味の仕置を落札し、それに臨む巳代松たちの活躍… という話。
こないだ「魔界転生」で見たばかりの大関優子=佳那晃子が、ドキュソ亭主から逃れてきた元妻の役。間接照明のようなエロっぷり。
「今でも母親役などで見かける女優が若かった頃の脱ぎの演技」に漂うエロチシズムが今の俺の波長には合っているようだ(笑)。
ドキュソは、巳代松が開発した五連式竹鉄砲(銃口が5つ丸く並んでいる)で倒される。巳代松は温和で人当たりの良いキャラだが、
たまに怒るとかなり怖い。伊達に
拝一刀の弟じゃないなと。
今回のストーリーは覚えていなかったが、このシーンだけは以前に見たときに鮮烈に刻み込まれている。ラストへ続くカタルシスが良い。